スペイン語

2007年7月12日 (木)

Soy bueno para bueno, pero para malo soy muy malo

”Yo soy bueno para buena, pero para mala soy muy malo!” 「俺はいい奴にはとてもよくしてやる、でも悪い奴にはとても悪くなれるんだ。」

メキシコの国民的歌手フアン・ガブリエルのランチェラの名曲"EL FARSANTE"より。

このところ、不動産や金融関係の方達と、慣れない交渉をする機会が多く、少々げんなり気味。全くこっちのペースで進みませんからねえ。でも、夜の営業で、来てくれたお客さんが、「美味しい」と言ってくださり、「頑張ってください」と声をかけてくださると、またやる気が湧いてきます。

 本当に、うちの店のお客さんは良い方が多い。 忙しい時など、料理が出てくるのが遅いのに、嫌な顔ひとつせず待ってくださり、料理をお出しした時には、手をたたいて喜んでくれるお客さんもいらっしゃる。こちらは、申し訳ない気持ちでいっぱいなのに。でも、そんな時、この仕事をやっていて良かったなと思います。朝から晩までのハードワークも一気に報われる気がします。

 でも、そんなサルシータの歴史上、ほんの2、3回だけ、お行儀の悪いお客さんに注意させてもらったことがあります。お金を頂く立場なのに、本当に申し訳ないのですが、他のお客さんに迷惑がかかる状態は阻止するのが、店主の役目でもあるので、、、

 そんな時、ぼくの頭の中で鳴っているのが、この曲の、このフレーズです。曲の中では、対象が女性になっているので、buena,malaと女性形になっているところ、,ここは臨機応変に変えてはいますが。

 フアンのような弱弱しいキャラクターが、思い切り見得を切って、この勇ましいフレーズを唄うのが良いんですよね。ビセンテ・フェルナンデスのような、マッチョな感じの人がこれを唄ったら、逆に面白くない。この辺りが微妙なんです。

 実は、このフレーズ、昔、渋谷のライブレストランで3ヶ月ほど常駐してライブをしていたキューバのバンド「ユムリとその兄弟達」の"CROCODILO DE AGUA SALADO"(直訳すると、「海水の中のワニ」、キューバ島はワニの形に似ている)というヒット曲にも入っていたのを覚えています。とすると、やはり、ラテンの国の人には響く言い回しなんでしょうね。

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2007年7月10日 (火)

Decisiones

"Decisiones, cada día. Alguien pierde alguien gana Ave María. Decisiones, todo cuesta. salgan y hagan tus apuestas ciudadania."

「毎日の決断、誰かが損をして誰かが得する。ああマリア様。 決断は高くも安くもつく。さあ、覚悟を決めて掛け金を払いな、市民の皆さん。」

 サルサの才人、ルベン・ブラデスの1980年の名盤"Buscando America"(アメリカを探して)の一曲目を飾るユーモア溢れるナンバーより。

このところ、新しいお店のことで、決断を次々と迫られる日々。

「壁の色は?」 「ロゴの字体は?」 「冷蔵庫の大きさは?」 「椅子はどれにする?」 「仕入れの業者はどこにする?」 「ユニフォームはどうする?」 「カトラリーは?」 「誰に何曜日働いてもらう?」

皆さんは、自分の店が出来て楽しいでしょう?と言って下さいますが、正直言って、とても大変です!

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2007年4月20日 (金)

Si tú no usa la cabeza alguien por ti la va a usar

「もし おまえが頭を使わなかったら、誰かがお前の代わりに使うぞ。」

 前にも取り上げたパナマ出身の自作自演の社会派サルサ歌手、ルベン・ブラデスが歌詞の中でよく使っている言葉です。

 ちょっと前に産経新聞で、あの大ベストセラー「バカの壁」の著者、養老先生が作家の角田光代さんと交している往復書簡の中で「考えるくせというのは小さな時に身に付けないと、一生身に付かない。」と書いていたのを読んでドキッとしました。ということは、考えるくせを付けずに大人になってしまった人は、そのまま考えることをせずに人生を終えるのだろうか?と疑問に思ったのです。つまり人間は”考える側”と考えない側”の大きく二つに分けられるのだろうか?と。

 でも、考えてみれば(ということは、ぼくは”考える側”の人間なのか?)この前、亡くなられた植木等さんじゃありませんが、人生に於いて、あまり考えないでいたほうが楽で、結果的に幸せに過ごせることが多いかも?とも思えるのです。あんまりいろいろ考えすぎて理想と現実のギャップに悩んでしまって自殺してしまう人もいるのだから。

 ルベンのメッセージは支配されることに慣らされてしまっている、所謂”コロニアルメンタリティ”に陥っている同胞のラテンアメリカ人達に警報を鳴らしているものです。支配する側にとってみれば、支配される側の人間はあまり考えないで現状を当たり前のこととして受け止めてくれたほうが、断然都合が良いでしょう。「誰かがお前のために使うぞ。」の”誰か”とは支配する側の人間のことです。「お前は何も考えずに働いていれば良いんだ。」という訳です。そういう状況を打破せよとルベンは言っているのです。

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2007年3月 3日 (土)

PENETRAR

 今日は桃の節句ということで、女性を讃える話にしたいと思います。

 あれは今から13年前のこと、スペインを旅していた僕は、更にその2年前にチリの標高2500メートルの砂漠の中の小さな村、サン ペドロ デ アタカマで知り合ったスペイン人の女性を、彼女の故郷であるカタルーニャ地方の小さな町に訪ねていました。住民は、皆、知り合い、というくらいの小さな町でしたが、彼女のボーイフレンドや他の友達と、カフェや食堂、クラブなどを巡って楽しく過ごさせてもらいました。彼等同士の話は全てカタルーニャ語なので、僕には理解できなかったのですが、僕と話す時だけはカスティヤーノ語(いわゆるスペイン語ですね。)に切り替えてくれていました。

 そして、次の日の朝、彼女の実家の大きな家に泊めてもらっったのですが、なかなか他の人が起きて来ない。やることがなくてリビングをうろうろしていたら、マガジンラックにスペイン語版の雑誌「コスモポリタン」があったのでひまつぶしに読み始めたのです。すると、その中にメキシコ人の作家ラウラ・エスキバルのインタビュー記事がありました。彼女の"COMO AGUA PARA CHOCOLATE"(日本語タイトルは「赤い薔薇ソースの伝説」)という小説は夫でもあった映画監督アルフォンソ・アラウによって映画化され、その前の年にニューヨークで外国語映画としては新記録の一年以上のロングランとなる大ヒットになっていました。(ちなみにそれまでの記録はスペインのペドロ・アルモドバル監督の「神経衰弱ぎりぎりの女達」でした。)また、原作の小説もニューヨークタイムスのベストセラートップ10に一年近く入るほど売れていました。

 さて、この小説(映画)は19世紀末の、まだ封建的な空気が残るメキシコ北部の村が舞台です。末の娘は結婚しないで親の面倒を見ないといけない、という古い風習のために愛する男と結婚出来なかった娘とその恋人。男は、その娘の傍に居たいという一心で、なんと彼女の姉と結婚して彼女の家にやって来ます。愛し合っているのに、他の家族の手前、それを隠し通さないといけない二人。娘は子供の頃から料理番の老女に仕込まれた得意の素晴らしい料理で、愛する男に思いを告げ、魅了するという話でした。

 スペイン語の"PENETRAR"という単語は「浸透する」とか「侵入する」という意味で、スラング的に、男性の側からの視線での性行為を指すことがありますが、その動詞を使って、そのインタビューの中でラウラさんはあの小説に込めたメッセージを説明していました。「男性は肉体的に(時には力ずくで)女性を"PENETRAR"することが出来るが、女性は料理を通して男性を"PENETRAR"することが出来る。」

 思えば、アメリカ合衆国は、戦争に勝ってメキシコからテキサスやカリフォルニアなど六つの州を奪いましたが、それらの州では、未だにメキシコの料理のほうがアングロアメリカ的な料理よりも人気があるのではないでしょうか?つまりアメリカはメキシコを力ずくで"PENETRAR"したけれども、食文化という点ではメキシコのほうがアメリカを"PENETRAR"しているということですね。もっと言えば、旧大陸からやって来てアステカの都を"PENETRAR"したスペインの男達が、アステカの女達に"PENETRAR"されたから、とうもろこしや豆、唐辛子、トマトなどアメリカ土着の食材をを主原料とする今日のメキシコ料理があるのです。

 そう考えてみると、先日、サルシータの料理をマジカルと表現した、あのカリフォルニア出身の白人男性、現代の国際ビジネスシーンでばりばり活躍していそうなあの彼も、実は遠い昔のアステカの女性達に"PENETRAR"されていたんですね。

 

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2007年1月 4日 (木)

ヨ・テ・キエロ

 このブログで初めに取り上げた「悲劇週間」を読んで以来、詩人の堀口大學に興味を持って、彼に関する本を読んだりしているのですが、彼の父である堀口九蔓一にも、とても魅力を感じています。戊辰戦争で父を亡くした九蔓一は、教育熱心な母に育てられ、猛勉強して日本でも最初の外交官の一人となり、韓国、メキシコ、ブラジル、スペインなどへ、大使として着任しているのですが、とりわけ、スペインがお気に入りだったようで、スペイン語に関するこんな記述を残しています。先日、読み終わった、工藤美代子著「黄昏の詩人 堀口大學とその父のこと」という本からの孫引きですが、紹介します。

 例へば、英語の「アイ・ラブ・ユー」は明快で、どことなく事務的で几帳面な感じがする。これはどうしてもアングロ・サクソンのやうな實利主義的な痩せた人種の愛の表現法である。

 ドイツ語の「イッヒ・リーベ・ヂッヒ」は何か知ら厚ぼったい感じがして、丁度豚の腸詰でも頬張っている人の戀の表現法である。

 フランス語の「ジュ・テーム」は輕快に手っ取り早く自分の考へを云ひ表はすには適當な表現法ではあるが、しかし何となく輕はずみで、無造作で、有難味が少ないやうな感じがする。

 ところが、西班牙語で、「アイ・ラブ・ユー」に當る「ヨ・テ・キエロ」は、嗚呼何んと熱烈な表現法であることよ。直譯すれば「私はお前が欲しい」と云ふのである。なんとまあ、張りがあって眞劍味で、そして如何にも熱烈であるではないか?

 いかにも、明治時代の知識人といった、ちょっと硬い文章ですが、さすが、詩人の父(本人も漢詩を書いていましたが)らしい感性の豊かさを感じます。工藤美代子さんは、九蔓一にベタ惚れのようで、「明治時代の日本に、こんな国際化されたスマートな男性がいたのかと、まずは驚かされた。それと同時に、九蔓一は日本男児の持つ全ての美点を備えており、かつて日本の男はこれほどまでに自信に満ちあふれ、情を解したのだと私に教えてくれた。」と書いています。現代の日本男児には、ちと耳が痛い発言ですね。

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2007年1月 2日 (火)

SALUD! DINERO! AMOR!

新年を迎えて、祝杯をあげている方も多いと思いますが、、、

 さて、スペイン語で「乾杯」は"SALUD!"(サルーッ)とやります。SALUDは、もともと健康を意味する言葉なので、お互いの健康を祈ろうという意味がここに込められているということなんでしょう。

 年末になると、必ず店でかけるCDに、グロリア・エステファンの"ABRIENDO PUERTAS"(扉を開けて)というのがあって、クリスマスから新年にかけてての季節の歌が多く入っているのですが、その中の曲の一節に"Que el año nuevo te de amor、 salud, dinero y felicidad"というのがあって、「新しい年に、あなたに愛と健康とお金と幸福が訪れますように」という意味なのですが、それを聴いて、昔、友人のメキシコ人に教えてもらったことを思い出しました。メキシコでは、"SALUD!"の後に、"DINERO! AMOR!"とやることもあるというのです。DINEROはお金、 AMORは愛のことで、この三つが人生に於いて最も大切なものだから、ということでした。若かった僕は、その時、健康が一番初めにくるのは解るが、その後の、お金、愛という順番には、情熱的なラテンのイメージと違うなあ、という違和感を覚えたものでした。

 でも、時が経ち、今になると、その順番に納得しています。「お金なんて二の次、大切じゃない。」なんていう人は、たいてい、本当にお金に苦労したことが無い人でしょう。メキシコを初め、途上国には毎日の糧を得るために苦労している人が沢山います。そんな人の前で、そんな台詞は、吐けないですよ。

 

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2006年12月 4日 (月)

¡Tengan fe!

 サルシータに来られるお客さんは、殆ど皆さん、うちはいつも忙しくて予約無しでは入れない、と思われてるようですけど、本当は暇な日だってあるんですよ。

 まあ、開店当初のように、全くお客さんが来なくて途方に暮れる、ということは無くなりましたが、何せ、細々とやっている個人経営の店なんで、暇な日が二日も続くと、けっこう心細い気分になるもんです。そんなとき、自分に言い聞かせているのが"¡tenga fe!"という言葉です。feというのは多分に宗教的な意味合いを持つ言葉で信仰とか信念という意味です。英語だと"faith"ですね。tengaというのは「持つ」を意味する"tener"の命令形なので「信念(信仰心)を持て!」というような意味です。

70年代から80年代にかけてニューヨークで一世を風靡したパナマ出身の自作自演のサルサ歌手、ルベン・ブラデスは、ハーバード大学のロースクールを卒業して国際法の弁護士の資格を持つインテリで、社会的なメッセージを曲に盛り込んで人気を博しました。特にいわゆるコロニアルメンタリティに陥りがちなラテンアメリカ人の意識を覚醒させようという問題意識に富んだ曲が多いのですが、彼の曲で"¡Tengan fe!"(tenganで複数形になる。)というのがあって、「feを持て。どんなことがあってもfeを持っていれば乗り越えられる。」というような内容でした。こういう"fe"というようなキーワードはキリスト教という共通したバックグラウンドがある同胞に対しては特に強力な磁力を発揮するんだなと思います。ぼくはキリスト教徒ではないけれど、逆境にあるときはこの言葉を思い出して自分を鼓舞するようにしています。

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2006年11月21日 (火)

serと estar

 英語ではbe動詞と呼ばれる、「~である」という意味の動詞がスペイン語には二つあります。それがserと estarです。ちなみに、スペイン語では主語に準じて動詞の形が変わるので、ser だと、soy,eres, es, somos, sois, son に、estar だとestoy, estas, esta, estamos, estais, estanになります。

serは持続的に、或いは永久的に続く事実を表すときに使います。例えば「私は男だ」(Yo soy hombre.)とか「ホセは私の先生だ。」(Jose es mi profesor.)とか,一方、estarは変化することを前提にして、今の状態を表すときに使います。「彼女は病気だ。」(Ella esta enferma.)とか「私達はバーに居る。」(Nosotros estamos en un bar)とかです。 

そして、ぼくが前から面白いな、と思っているのは、幸せだ、という時には"soy feliz"とserを使うのに、悲しいと言う時には"estoy triste"と estarを使うんですね。ちょっと合理的でないようだけど、幸せには、ずっと続いて欲しいけど、悲しいのはすぐ終わって欲しいという願望の現われでしょうか。

 しかし、現実はその逆のようです。スペイン語とは兄弟のようなポルトガル語のブラジルの歌でこんなのがあります。"tristeza ñao ten fin, felicidade sim."(悲しさには終わりが無い、幸せには、ある。)ビニシウス・ジ・モラエス作詞、アントニオ・カルロス・ジョビン作曲のボサノバの名曲「フェリシダージ」です。

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2006年11月20日 (月)

”pues, esto es mi forma de ser”

 前々回、触れた、”esto es mi forma de ser”というフレーズは、昔、メキシコ人の若い女友達から来た手紙に書いてあったものでした。随分、前の事で、細かい内容は忘れてしまったけれど、なにか、自分の性分と周りの状況がうまくいってないようなことが書いてあって、その後、"pues, esto es mi forma de ser"(まあね,これが私ってものだから)と結んであったのでした。そんな大昔のことを、何故、未だに覚えているかというと、当時20才くらいだった彼女の、自分に対する揺らぎない自信が印象的だったからでした。

 昔、落語家の立川談志師匠が、何かの対談で、「変えれないから性格って言うんだよ。」と発言していましたが、なにか、周りとうまくいかないときに、くよくよしないで、"pues, esto es mi forma de ser"と自分を肯定することが出来るのが、見習うべき?ラテンな生き方なんでしょうね。

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2006年10月23日 (月)

palabrota,groseria(汚い言葉)

 昨日、メキシコのバンド、EL TRIのリーダー、ALEX LORAについて書いた時、彼の下品な言動のことに触れましたが、こういう英語で言うところの”four-letter word”を多用する傾向は,メキシコ以外でも一般的にスペイン語圏に多いように思われます。特に性的な部分を暗喩するようなものが多くて、これはスペイン語を学んだことがある人なら頷かれることがあるのではないでしょうか。

 実際、ぼくがスペインのグラナダで一月ほど語学学校に通ったとき、そこの先生の1人はそのことに触れて、ノーベル文学賞を受賞したスペインの高名な作家ホセ・カミロ・セラの著作にそんな下品な言葉を集めたものがある、などとちょっと自慢げに話していました。また、別の先生はいろんな国から来た生徒にそれぞれの国で使われている汚い言葉について聞いたりしていました。

 以前からこのことについては何故なのか考えていましたが、よく判りませんでしたが、最近、やっと自分なりの答えを見つけることが出来ました。それは、カトリック的な道徳感の強いスペイン語圏の国々では、子供の頃からお祈りをさせられたり教会で神父さんの話を聞かされたりして、とても神聖な言葉ばかり聞かされたり言わされたりしている、そのことに対しての反動ではないかと思うのです。というのは、日頃、神聖な言葉に触れているのに、実際の彼等が住む現代社会は聖書の世界からはかけ離れて混沌としていて理不尽なことも多い、だから、その理想と現実のバランスを取るためにそんな下品な言葉達が機能しているのではないかと思えるのです。逆に言えば、宗教観の強くない日本では、そんな言葉はあまり必要とされていないということでしょうか。

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